「愛しの山男たち」は、講談社から1978年に刊行されました。1955・56年に制作された5作品が収録されています。それぞれの作品には、畦地梅太郎自身によるエッセイが付されています。本ページ中のコメントは、それらを転載したものです。

二人の山男

同行二人 四国八十八カ所霊場めぐりは、信者、門付専門さまざまのお遍路さんである。着衣は白一色、おいずる、すげ笠に遍路杖、ずだ袋に納札はさみ箱、それぞれに同行二人の四文字が目につく。弘法大師にみちびかれ行くの意だそうである。このごろは、遍路杖はそのまま、すげ笠が帽子に、おいずるがリュックサックに変わっている。後姿は山男である。
 わたしも、戦前の若い頃、四国遍路のなが旅をした。が、終わりの二カ寺はいまだに参拝が残してある。最後の八十八番のお寺に納めるといい伝えの杖も手元に残っている。敗戦後、その杖は山行きの杖になっていたが、北アルプスを縦走したとき、黒部の断崖くりぬいたエレベーターの中へおき忘れてしまった。山男のもち物は、お寺に納めなくて、山の中へ置きわすれたのがよかったのかも知れぬ。

鳥と山男

親子の山 山へあこがれた若者が、山の会に入会しての最初の頃は、もう、いっぱしの登山家にでもなったつもりか、得とくとしたものだ。女子会員も多ぜいだ。いつのまにか、女子会員とも、ねんごろになって、二人だけの山歩きに夢中になる。ついに結ばれて幸福な生活にはいることになって、目出たしである。やがてのこと、子供が生れ、男の児であろうが女の児であろうが、大きくなったら、自分夫婦と同じように、山好きな児に育てようともくろみ願うらしい。
 まだ、はいはいもできぬというのに、幼児をリュックサックに首だけ出るように詰めこんだのを、若い亭主が背にかつぎ、夫婦で山歩きである。広大な山波など幼児の目になんとうつるものか。高原の清澄な空気を、なんと感得したものか、いつもより嬉嬉とした顔を見せるということ話した若夫婦がいた。

老登山家

山の風物いまはない 世帯道具を、いっぱい詰めこんだリュックサックを背に、ナタだの、ノコギリだの、水筒だの、細引だの、腰にぶらさげて、のっしのっしと、山の尾根みちを歩いている大男など、いまは、もう、夢物語りであろうか。こうした姿の山歩きの人は、どこでも、水さえあれば、そこをその夜の泊り場にする山男である。
 布一重でも、天幕の中で山の世帯道具を並べ、ローソクの光の明るさで眺めるおもむきは、山を歩く人だけに理解されるというものだ。天幕の外が、まっ暗闇のうす気味わるさであったり、物の怪異を感じさせたりしていても、布一重は堅固なコンクリートの壁にも感じられて、天幕の中は楽しさいっぱいである。それにもましてうれしいのは、世の中の諸諸の事がらもったものが、追いかけないことだ。人はこれを逃避だというけれど。

冬の山男

年寄の冷水 山裾の雪道歩くころは、明るい気もちいっぱい。一泊した山小屋の裏手は、雪のなか泊りの跡がきたなく目立った。連中も、わたしたちと同じ雪山目指したのか、そんならと、わたしたちは気おいたった。
 雪をいっばいかぶった林をぬけると、急な斜面が前方に立ちふさがった。斜面にピッケル打ちこんで、それにすがって身体をおし上げる登りかたをした。前後の人らよりわたしは老体の身、後の若者が、なんとかの水とかなんとか、一人言いったのがきこえて気になった。
 鞍部へせり登ったとたん、向う側からの強風に、わたしの老体は押しもどされ、ひっくりかえりそうになったが、後の若者が、とっさにわたしをささえてくれて、なにこともなかったものの、若者の一人言が、年寄りに冷水といったのかと、やっと気がついた。若者の意見で、鞍部から引きかえすことにした。

鳥をかかえて

ほっとする 深い渓谷の向うの山の斜面には、残雪がべったりである。歩く尾根筋のあっちこっちにも、いっぱいの残雪である。残雪は、うす汚なくよごれている。昔は、そんなに、この季節に山歩きの人はなかったらしいが、最近の山歩きは、季節はどうでもよい、金と時間さえあれば、山はいつでも満員であるという。
 ライチョウは、雪線上のハイマツ帯をねぐらにしていて、雷雨で山が荒れてくると、ハイマツ帯から飛び出してくるという。山が荒れると、外の生きものは、ハイマツ帯ににげこみ、山歩きの人は、近くの山小屋へ足早になろうというのに、ライチョウは、おかしなくせのある山の鳥だと思ったものである。
 一人歩きの物云わずの続くとき、ひょいとライチョウを見かけたりするものなら、わたしは、ああ、ここにも、生きるもののひとつがあったのかと、ほっとしたものだ。