尾張町の一角(1930)
尾張町とは、現在の銀座の一部の区域に当たります。畦地梅太郎は、創作を始めた頃は、都会の風景を多く描きました。しかし、戦争が激しくなるにつれ、街でスケッチをしているだけで、憲兵から注意をされたりするなど、都会の風景を描くことが難しくなり、次第に表現の対象は、山に移っていきます。
浅間山(1940年代)
制作年ははっきりしないのですが、浅間山を描いた作品の中でも、かなり初期のものであると思われます。後に描かれた浅間山と比べると、写実的に描かれており、風景画でも作風が異なるものになっていくことが分かります。
伊豫観自在寺(1941)
畦地梅太郎の妻の郷里である観自在寺を題材にした作品です。畦地梅太郎は、作品制作のため、四国八十八カ所を回りましたが、観自在寺には、長く滞在しました。観自在寺を取り上げた作品は、全部で3点ありますが、その中の1枚です。
夏の富士(1951)
1950年代初頭に刊行された『四季の富士シリーズ』の中の一つの作品です。畦地梅太郎自身は、富士山には登ったことがなかったようですが、このように富士の遠望を描いています。「四季の富士シリーズ」には、正月・春・秋・冬のそれぞれの富士を描いた作品もあります。
冬の富士(1951)
『四季の富士シリーズ』の中の一つです。「八ツ山ろくの富士」という別題がついていることから、八ヶ岳方面から見た富士山を描いているものと考えられます。夏・秋・冬といずれも異なる方向から富士山が描かれています。
石鎚山(1970)
畦地梅太郎作品の中でも山の風景を描いた作品は、1950年代後半を境に少なくなりますが、この作品も風景画としては相当後期のものとなります。この頃には、年齢の問題もあり山に登ることも少なくなりましたが、自分の郷里にある石鎚山は、いつも心の中に残っていたのでしょう。
石鎚山(1985)
愛媛県民文化会館ホール(現・ひめぎんホール)の緞帳(どんちょう)の原画として依頼を受け、畦地梅太郎が最後に制作した版画となります。山をスケッチせずに制作することが多かったのですが、畦地は83歳のときに石鎚山に登り、山をスケッチし、この作品を残しました。